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2013/12/11

中世の「食」を読み解く

フランス語の原文はこちら:Cuisine médiévale - texte en français

食にまつわる決まり事

パンとワインの簡単な食事を分かち合う旅人の一団:
14世紀の書物『モデュス王とラティオ妃の書』より

地中海文化の料理は、古代より穀物、とくに様々な種類の小麦を土台にしていました。小麦粉をミルクで煮たミルク粥やオートミール、後世にはパンが主食になり、人々の中心的なカロリー源になりました。たとえば、8世紀から11世紀にかけて、食物全体に占める各種穀物の割合は約1/3から3/4にまで増えています。小麦への依存度は、中世全体を通して高い状態が続き、キリスト教が広がるにつれて北方の地域に拡大して行きました。けれども、寒い地域では、小麦はほとんどの人には買えない高価なもので、貴族だけが食べられるものでした。

カトリック教会と東方正教会、そして教会が定めた暦が、当時の食習慣に大きな影響を与えていました。たとえば肉を食べることは、1年の1/3近い期間にわたってほとんどのキリスト教徒が禁止されいました。また、卵などすべての動物性食品(魚を除く)は、ふつう四旬節[1]や大斎[2]の間は食べてはならないとされていました。



どんなものが健康によく、栄養があると考えるかについては、中世の医学が多大の影響を与えていました。食べものや運動、個人の振る舞い、それに合った治療薬などの生活様式が健康への道であり、食物にはすべて人の健康に影響する特性があると考えられていました。食物は、〈熱い chaud〉/〈冷たい froid〉という尺度と〈湿っている humide〉/〈乾いている sec〉という尺度で分類されていました。この尺度は、ガレノスという医学者[3]が唱えた「四体液説」によるもので、ガレノスの理論は古代から17世紀まで西洋の医学思想に支配的な影響力をもっていました。

中世の医師は、消化と調理は同じひと続きの過程だと考えていました。胃の中での消化も、調理から続く連続した過程の一環と考えられていたのです。食べものが正しく「調理」され、栄養分がよく消化吸収されるためには、正しい順序で胃を満たすことが重要とされました。最初は消化しやすい食品から摂り、段々と重い料理を食べるのです。

この順序を守らないと、重い食物が胃の底にたまって消化管が詰まってしまい、消化の遅れを引き起こすばかりか、場合によっては体が腐敗し、胃の中に悪い体液が発生すると考えられていたのでした。また、特性の異なる食物を混ぜないことも決定的に重要なこととされていました。

15世紀の宴会
食事の前には、アペリティフで胃を「開く」ことが望ましく(ラテン語の aperireという言葉は「開く」の意)、アペリティフには生姜やキャラウェイ、アニス、フェンネル、クミンなどのスパイスを砂糖や蜂蜜でくるんだ砂糖菓子のような熱く乾いた〉性質のものがよいとされていました。食事はリンゴのような消化しやすい果物から始めるのが理想とされました。その次は、レタスやキャベツ、スベリヒユなどの野菜、湿った果物、鶏やヤギのような軽い肉を、ポタージュやブイヨンスープといっしょに食べます。そのあと、豚や牛などの重い肉、そして梨やヘーゼルナッツのような消化しにくいと考えられていた果物や木の実が出されました。最初に胃を開いたのと同じように、食事の最後には胃を閉じる必要があるとされました。それには、スパイスをまぶした砂糖の塊でつくったドラジェや、スパイスで香りを付けたワインであるヒポクラスを、チーズといっしょに摂るのが普通でした。

理想的な食べものとは、人間の体液の特性、つまり中程度に熱く湿った特性にできるだけ合ったものとされていました。食べものを細かく切ったり、下ろしたり、圧したりして、材料全体を混ぜ合わせなければならないと考えられていました。白ワインは赤ワインよりも体を冷やすものとされ、ホワイトビネガーとレッドビネガーにも同じ区別が適用されました。ミルクは熱く湿ったものでしたが、どの動物のミルクかによってその程度は異なるとされました。卵の黄身は熱く〉〈湿った〉ものとされましたが、白身は〈冷たく〉〈湿った〉ものとされていました。こうした組み合わせの制限があったとはいえ、シェフが腕を振るう余地は常にありました。

中世の日常的な食事のカロリー価と構成は、時代とともに、また地域や社会層ごとに変化しました。しかし、大多数の人の食事は一般に炭水化物が多いものでした。それは、カロリー摂取の中心が穀物とアルコール(ビールなど)で、家計支出の最大の項目もそうした食品だったことから来ています。


地域的なバリエーション

中世の料理は、穀物と脂肪の違いによって分類することができます。どんな穀物や脂肪を食べるかによって調理の仕方の違いが生まれ、民族ごとの境界、あるいはその後の国境が決まってくるからです。ブリテン諸島やフランス北部、オランダ、北部ドイツ語圏、スカンジナビア、バルト海地域は、一般に寒冷すぎてワインやオリーブの栽培には不適でした。南部では、貧富を問わずワインがふつうの飲み物でした(ただし、貧困層は質の悪いワインで我慢しなければなりませんでした)。他方、北部ではワインは高価な輸入品だったため、基本的飲みものはビールでした。地中海沿岸地方では、豆類とザクロがよく食べられていました。イチジクやナツメヤシの実は北部でも採れましたが、料理に使われることは稀でした。

オリーブ油は地中海沿岸地方で欠かせない食材ですが、北部ではどの時代にも高価だったため、代わりにはるかに手頃なケシの実やクルミ、ハシバミの実から採った油が使われました。とくにペストの蔓延で人口が大幅に減少[4]した後は、北部や北西部でバターや豚などの脂身が大量に用いられるようになりました。ヨーロッパ全土の富裕層では、アーモンドが料理に使われました。ふつうはアーモンドミルクの形で、卵や乳製品の代わりに用いられました。

食事

竈で調理する料理人:1485年にドイツで印刷
された最初の料理本 Kuchenmaistrey木版画。
ヨーロッパでは、昼の半ばに食べるデイナー(dîner)と、日没後に食べる軽い夕食(souper)の1日2食が代表的な食事の形でした。この二食制は中世を通して続きました。道学者は夜間の断食を急に終えるのは良くないことだとしており、聖職者や貴族達はそれを避けるようにしていました。現実的な必要から、労働者は朝食を取るのが常で、幼児や女性、老人、病人も朝食が容認されていました。教会の教えで、大食など人間の弱さが戒められていたため、男たちは朝食を食べるのは恥だと思う傾向がありました。多飲をともなう大宴会や「レレソペール」(「遅い夕餉」という意味のオック語「レイレ・ソパール rèire-sopar」に由来する言葉)は不道徳なものと見なされていました。

当時の生活が全ての面でそうだったように、中世の食事は個人ではなくみんなと一緒に取るものでした。ディナーというものは、ふつうは使用人も含め、家族全員で取るものだったのです。人が互いに依存しなければ生きていけない当時の社会では、一人でこっそり何かをするのは、利己的で身勝手な行動と見なされました。食べものは大皿や鍋で食卓に出され、ひとつ屋根の下で暮らす人たちが、固いパンや木の板、錫メッキした鉛の食器などの上に自分の分を取り分けて、スプーンや手づかみで食べるというのがふつう形でした。貧しい家庭では、食べものを直接テーブルの上に置いて食べることもよくありました。食卓ではナイフも使われていましたが、よほど大切な客でない限り、招待客は自分のナイフを持参しなければならないのがふつうでした。位の高い人や一家の長に近しい人でない限り、少なくとも同じ屋根の下に住む複数の人がひとつのナイフを使うのがふつうでした。食べるためのフォークも近代に入るまであまり広まっていませんでした。使われるようになっても最初はイタリアだけで、イタリアでもフォークやナイフが社会の各層でふつうに使われるようになったは14世紀になってからでした。
(つづく)
訳:今津 頼枝、鈴木 眞利子、新納繭子、梅干野 幸子、和田 久美子

[1] 灰の水曜日 mercredi des Cendres から復活祭前日までの日曜日を除く40日間の悔悛と洗礼志願者の最終準備期間。

[2] カトリック教会では、イエス・キリストの受難に心をはせるために行う食事制限のことで、「1日に1回十分な食事を摂り、あとの2食は少ない量に抑えること」が基本的な形である。第2バチカン公会議以降は、18歳以上60歳未満の健康な信徒に対して四旬節中の灰の水曜日と聖金曜日に行うことが求められており、通常は小斎とセットになっている。しかし、病人や妊娠中の者、特別な事情がある者は免除される。第2バチカン公会議以前は毎週水曜日と金曜日が大斎日とされており、聖体拝領の前にも断食を行うことが求められていた。
東方正教会では赦罪の主日晩課後、聖枝祭前晩までの6週間に渡る期間、また特にその期間に行う禁食(斎:ものいみ)のこと。(Wikipediaより)

[3] ガレノス[Galenos/Galenus 英Galen 仏Galien]129 (または130)〜199 (または200) ギリシアの医学者.小アジアのペルガモンに生れ、アレキサンドリアその他で医学を修めた。のちMarcus Aurelius帝に重用されて、ローマに定住(169)。解剖学者・生理学者として古代医学最後の代表者。解剖学においては死体解剖が不可能だったのでサルなどの解剖に基づいて人体の構造を類推した。動脈に血液が含まれている事実を初めて明らかにしたほか脊髄など神経系のはたらきを調べ臨床的には脈搏を診断に用いた。その医学的知識に誤りも多くあったが長く認められずまた忘れられた卓見も少なくなかった。近世に至るまで権威づけられて修正を許されなかったがそれはガレノスの責任ではない。‘Scripta minora', 3巻 (1884〜93) ほかの集成本がある(岩波 生物学辞典 第4版より)


[4] ペストの流行がヨーロッパに与えた影響については次の論文が非常に参考になります:加藤茂孝「人類と感染症との闘い ―「「ペスト」-中世ヨーロッパを揺るがせた大災禍」(モダンメディア 56巻2号 2010[人類と感染症との闘い]、pp. 36-48)